19世紀までの精神医療の歴史
癲狂院
世界的にみて、精神障害を取り扱った最も古い記述の発見は、紀元前1500年のエジプトのエーベルス・パピルスと言われています。
エーベルス・パピルスの Book of Heartsと呼ばれる章には、うつ病や認知症のような精神障害についての記述が詳細に書かれており、エジプト人が精神を肉体は同じような疾患と捉えていたようです。
日本でも、古いもので奈良時代に記録が残されています。
当時は. 「癲狂(てんきょう)」と呼ばれ、意外にも人道的に保護されていました。
平安時代には「物狂い」に加えて江戸時代は「きちがひ」「乱気」「乱心」といった言葉が使われ、「神経」という言葉がでてくるようになるのも明治以降1874年に西洋医術が普及しだしてからです。
現在使われている精神障害という言葉は、別名「心の病」とも呼ばれていますが、その研究が本格的に始まったのは19世紀に入ってからでした。
18世紀後半の西洋では、 スピリチュアルの原点ともなるエマヌエル・スヴェーデンボリが登場し、神智学が 隆盛 していた時期でしたが、その流れとしてフランツ・アントン・メスリスが「動物磁気説」を提唱し、「病は宇宙に蔓延するガス状の動物磁気の減少によって起こる」と考えていました。
患者を治療中にたまたま催眠を発見し、後に「メスメリズム」と呼称されます。
これは後に、精神治療法としての催眠療法の原点となっていきます。
潜在意識、スピリチュアル、引寄せの法則、催眠療法などがセットになっているのも、すべては「グノーシス系」に結びついています。
「精神病」の名称は、1835年ジェームス・プリチャードが「 生活の所作の中で礼儀と礼節どおりに振る舞う ことができない人々」を説明するために定義した言葉で、以後精神に関する研究が盛んになります。
19世紀のアメリカも産業革命時代で、都市化、工業化が進んでいましたが、労働者間で、睡眠障害、いらいら、めまいといった身体症状をもつ人が増え、疲労が持続する病気として1869年米国医師ベアードはこれを「神経衰弱」と命名しました。
生活のストレスによる中枢神経系のエネルギーの枯渇の結果であると説明し、はやくから神経系統と精神・感情との結びつきを発見します。
1880年になると、フレデリック・H・ワインが、精神病を痴呆、飲酒狂、てんかん、躁病、メランコリー、妄想狂、麻痺狂と7区分にカテゴライズします。
1880年代、フランスのナンシーで、内科医リエポールと神経学者のベルネームらが催眠療法の研究を行っていましたが、ジークムント・フロイトもそこで催眠療法を学び、後にカタルシス法(浄化法)「過去のトラウマが現在の症状の原因となっていて、それを思い出して、その思い出の感情を吐き出させれば症状が消失する」のヒントになる前額通利法(おでこに手をあてる)を用いて治療を行うようになります。
やがて、フロイトは思わしい実績が得られないことから催眠療法から離れ、精神分析法の開拓へと進んでいきます。
1889年、フロイトは「神経衰弱」を神経症の中の「不安神経症」と改名し、その10年後にエミール・クレペリンが「精神病」を、「精神分裂病」(今の統合失調症)と「躁うつ病」(今の双極性障害)に分類します。
さらに「てんかん」が追加され、現在の統合失調症、双極性障害、てんかんは三大精神病と呼ばれていました。
統合失調症、双極性障害は先天的なものであり、うつ病とは全く別のものと考えられていたのですが、近年は診断基準の改定や、医師の診断によりうつ病から双極性障害、さらには統合失調症と変遷する場合もあり、その境界性はあいまいで信頼性のないものになってきています。
初期の治療法は、催眠療法から始まり精神分析、認知行動療法、自律訓練法と催眠、暗示から派生した手法が主でしたが、1950年代の精神薬の開発により投薬治療が次第に主流となっていきます。
20世紀以後 精神病と神経症の細分化と診断名の増加
1924年、フロイトは、治療の対象を神経症を絞るために「精神病」と「神経症」の2つのカテゴリ化を行いますが、その後DSMの改定につれて、2つのカテゴリ化はなくなり細分化されていきます。
1952年、最初の DSM(精神疾患の診断・統計マニュアル) がつくられ、神経症、精神病に、人格障害(現パーソナリティー障害)も追加されることになります。
また、同性愛者も精神障害とみなされますが、1974年には同性愛者らによる抗議で削除されます。
この年、抗精神病薬が開発されたのを機に、しだいに投薬治療が主流となっていきます。
1980年のDSM-Ⅲ版の頃になると、フロイトの提唱した「精神病」と「神経症」の分類は、正確性に欠け誤診断をもたらすようになったため、「神経症」と「精神病」の区別をなくし、神経症の表記が削除されます。
また、このときから、DSMが国際的に広く用いられるようになったため、「精神医学の革命」と呼ばれるようになりました。
DSM-Ⅲができると、イーライリリー社(アメリカ製薬会社)が資金援助を行い、アメリカで「うつ病はセロトニンの減少によって起こる」のスローガンを掲げたうつ病キャンペーンが始まり、抗うつ薬SSRIの販売が拡大します。
1994年、DSM-Ⅳにおいて、5軸からなるカテゴリー体系をまとめ、「多軸診断システム」を導入します。
また、広汎性発達障害(PDD)の概念も盛り込まれ、この分類にアスペルガー症候群も組み込まれます。
1998年になると、日本でもアメリカのうつ病キャンペーンを模したキャンペーンが始まり、抗うつ薬SSRIの販売量が増加していきます。
それまで、うつ病など精神状態は自律神経の乱れによって起こると言われていたものが、これによりうつ病はセロトニンの減少によって起こるといった考え方が世間では一般的となります。
「うつ病は心の風邪 うつ病にかかったらすぐ病院に」
といったスローガンで、日本のうつ病の認知度、メンタルヘルス教育が盛んになり精神科・心療内科の受診率が急増。
また、向精神薬の売り上げも右肩あがりになっていきます。
消防庁データ(東京)
一方で、向精神薬の使用に伴い、自殺者が増加して3万人/月を超え、リストカット者も急増します。
また、2004年頃には、抗うつ薬の「パキシル」の処方で攻撃性が高まり、殺人・殺傷事件に発展していくニュースが多くなり、次第に向精神薬の薬害性が明らかになるばかりか、薬漬けにされ入退院を繰り返す患者も増えていくようになります。
また、精神分裂症は「統合失調症」、躁うつ病は「双極性障害」と名称が変更されます。
昔は躁うつ病というのは極めて稀な症状で、診断で躁うつとされることはなかったようですが、増加傾向がみられるのは、双極2型が意識され始めたことと、未成年の人の双極性障害も診断され始めたこと、製薬会社が利益をあげる(抗うつ薬より利益がでる)などといった背景もあるようです。
特に2009年~2014年にかけて不自然に倍増しますが、2011年から始まった製薬会社による「双極性障害キャンペーン」が影響しているとも考えられています。
そのため、双極性障害という馴染のなかった言葉も頻繁に目にするようになってきました。
うつ病者と双極性障害者の推移(千/年人)
2005年 | 2008年 | 2011年 | 2014年 | |
うつ病 | 586 | 689 | 683 | 668 |
双極性障害 | 89 | 116 | 118 | 214 |
2013年 DSM-5において、「多軸診断システム」は廃止され、「多元的診断システム」が導入されます。多軸診断システムは廃止されましたが、カテゴリーは維持されており、DSM-Ⅳとの大きな違いとして、精神疾患・パーソナリティ障害・発達障害の重症度を判定するための『多元的診断(ディメンション診断)』が導入されたことです。
多元的診断とは、自閉症スペクトラムに代表される各疾患単位や各パーソナリティ障害のスペクトラム(連続性)を想定して、各種の精神疾患・パーソナリティ障害・発達障害の重症度(レベル)を『パーセント表示(%表示)』で表そうとしたものです。
今なお残る障害定義のあいまいさ
心の病とはDSM的には「精神障害」という用語を採用しているが、日本では「精神疾患」に訳されている。
医学的概念では「障害」は「疾患」より軽い失調状態を意味しているが、精神医学的とは概念が異なっている。
2010年、DSM-IVのアレン・フランセス編集委員長は、WIRED英語版で、「精神障害の定義は存在しません。戯言です。つまり、定義などできないということです」などと発言している。
DSMには「生物学的検査と根拠」がなく、症状のみの判断で行うことから、批判が今も多い。
発達障害の歴史
ASD(自閉症スペクトラム アスペルガー症候群)の歴史
発達障害ASD(自閉症スペクトラム)は、1944年に、アメリカの児童精神科医レオ・カナーが自閉症を発見したことが起点です。
ほぼ同時期にドイツの精神科医のハンス・アスペルガーも発見しますが、第2次世界大戦の敗戦国として、その論文は無視されてしまいます。
当初は、カナー型の自閉症モデルが知れ渡っていましたが、後に、イギリスの精神科医ローナ―・ウィング女史がアスペルガーの論文を見つけてカナー派に対抗し、以後カナー派とアスペルガー派に分かれて長年にわたり論争が渡り繰り広げられるようになります。
ローナ―・ウィング女史がこのように活動的だったのは、当時自閉症は親の躾けが原因であるといった「冷凍庫マザー説」(現在の毒親に該当するようなもの)が広がっており、ウィング女史の子供も自閉症であったため、その風説を払拭したいがためのものであった背景もあるようです。
1980年になると、ウィング女史によってアスペルガー症候群の認知が広まるようになり、1994年のDSM-Ⅳにおいて、広汎性発達障害の中に「アスペルガー症候群」が組み込まれます。
一方で、従来の自閉症よりも適用範囲が拡大化したため、見かけ上自閉症が急増し、社会的混乱を招きます。
2013年には、カナー型とアスペルガー型をスペクトラム化し融合するような形で、ASD(自閉症スペクトラム)と名称が変更となります。
アスペルガー症候群と言われていますが、実際は、ローナ―・ウィング女史によって改造され、当初アスペルガー氏の定義したものとはかけ離れたものが採用されています。
また、「ASDは先天的なものである」と決めつけたのも、ウィング女史が決めたものですが、実際診断を受け発達障害と診断を受けた人のほとんどが、機能不全家庭育ちであるという結果も明らかになりつつあり、単純に先天的というわけではないようです。
ADHDの歴史(注意欠陥・多動性障害)
1902年、イギリスの小児科医、サー・ジョージ・フレデリック・スキルによって、知能自体は正常だが、「落ち着きがなく、暴力的な発作を起こし、破壊的で、処罰にも反応しない子供たち」を報告したのが、ADHDの概念の源です。
スキルは、ダーウィニズムの枠組みの中で発達障害としていましたが、次第に脳の損傷ではないかという仮説も浮上します。
1950年代の終わり、微細な脳損傷の影響が考えられる行動、認知、情緒の障害を、MBD(微細脳機能不全)と呼び、その後、MBDは多動症候群と特異的発達症候群つまり学習障害の2つのカテゴリーに分けるのが妥当であるとされました。
1980年にはDSM-Ⅲにおいて多動症候群に代わり、「多動を伴う注意欠陥障害」の診断名が登場し、1994年に改訂されたDSM-IVでは現在のADHDとなります。
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